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『ゲルギエフの悲愴』を聴いてみた

チャイコフスキー:交響曲第6番<悲愴>チャイコフスキー:交響曲第6番<悲愴>
ワレリー・ゲルギエフ
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団


僕にとって、チャイコフスキーの「悲愴」は、どのように演奏されるべき曲か。

つかの間の喜びは、打ち消されることを予感させられるべきであり、悲しみは、虚無に帰すことが前提となる。
焦りは、早く終結してしまいたいことの現れであり、慟哭は、決してそこから逃れられることの出来ない諦めでなければならない。

すべての表現が、4楽章終結部の死んだようなピッチカートを指向していなければならない。
これが、僕の好きな悲愴。



さて、髭もじゃゲルギエフ、顔が猥褻な、いまや泣く子も黙る、ロシアクラシック界の平井堅が奏でる悲愴は、どうだったのか。


極めて、清冽な表現、録音。
甘美な旋律は、やはりエロティシズムを感じる。
第一楽章展開部などでは、演奏効果たっぷりの劇的な表現に酔える。
第二楽章などは、ことによると、今まで聞いた他のどの演奏よりも、美しいかもしれない。

にもかかわらず、いまひとつ納得のいかない演奏、そして録音、というのが僕の感想。


問題は、第三楽章、第四楽章である。
第三楽章では、その劇的な表現が鼻につく。
テンポが揺れる。おそらく意図的な揺れだろう。焦りの表現なのだろうが、焦りではなく、テンポの揺れだけを感じてしまう。鼻につく。
執拗なバスドラムの強奏。

第四楽章が、暗くならない。
演奏自体は、ものすごく良い。美しい。相も変わらず、エロティックである。
でも、この曲は、Patheticだ。Eroticではない。
「悲愴」が最も「悲愴」っぽいこの楽章で、「悲愴感」を感じられないのは、致命的だ。

三楽章以降、演奏者(ゲルギエフとウィーン・フィル)が陶酔してしまったのではないだろうか。
この手の曲は、演奏者が酔えば酔うほど、聞き手には何も伝わってこなくなる。



ゲルギエフは、個性的な音楽家である。
曲との相性、聞き手との相性には、極めて敏感な音楽を奏でる人なのだろう。

逆説的ではあるが、この一件で、ますます、この人のほかの曲を聞いてみたくなった。
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テーマ : ひとりごと
ジャンル : 心と身体

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