FC2ブログ

重大犯罪と刑事責任(7・最終回)

(『重大犯罪と刑事責任(6)』から続く)

客観的考察、そして、主観的、内省的考察。


いままでの考察をお読みいただければ分かると思うが、憲法、そして、刑法の大原則があることにより、日本が民主主義であり、自由主義国家であり得るのだと言って問題なかろう。

また、イスラム・東アジアを除く世界の大半で、その残虐性により、死刑が否定されているのも間違いない。
戦後直後の日本でも、「死刑は将来的に残虐な刑と見なされるだろう」と予想されていた。

では、現状はどうだろうか?
世論は、死刑存続、厳罰化に流れている。
ニュースでは、残虐な映像とともに、恐ろしい事件を伝え続けている。
被害者が画面に登場する回数は、以前より格段に増えている。

こんなとき、ぼくは、感情としては、被害者側に立ちたくなる。
皆、誰でも、そうだろう。
そして、被害者の気持ちが分かったふりをする。
被害者の言葉「被告に厳罰を」が、心に刺さる。
加害者の言葉は、ぼくには届かない。

でも、だから「厳罰は正しい」のか?
事件の被害者として、厳罰を求める、という姿勢について、疑問に思っているわけではない。
まっとうな感情であろう。
但し、それは被害者としての感情である。
第三者として、被害者だけに同調するのはフェアじゃない。
両方、見るべきである。


こんな状況下において、ぼくを含め、多くの人が、憲法の理念、刑法の理念について、理解していない。
何を基準に、フェアかフェアじゃないかを判断する基準を、誰も持ち合わせていない。
きわめて、恐ろしいことではないだろうか。


話を最初に戻そう。

そもそものぼくの疑問の直接的出発点は、『重大犯罪と刑事責任(1)』にも書いたとおり、勝木諒容疑者の、千葉県東金市保育園児死体遺棄事件にある。
「死刑は当然だあ」
「精神鑑定なんか不要だあ」
「はやく極刑にせよ」
という意見って、どうなの? というのが、最初であった。

考察を続け、ぼくの印象に最も強く残ったのは、次の言葉である。
この感情に於て私も決して人後に落ちるとは思はない、しかし憲法は絶対に死刑を許さぬ趣旨ではないと云う丈けで固より死刑の存置を命じて居るものでないことは勿論だから。
若し死刑を必要としない、若しくは国民全体の感情が死刑を忍び得ないと云う様な時が来れば国会は進んで死刑の条文を廃止するであろうし又条文は残つて居ても事実上裁判官が死刑を選択しないであろう、今でも誰れも好んで死刑を言渡すものはないのが実状だから。

これは、1948年(昭和23年)3月12日、最高裁大法廷が、死刑制度は合憲であるとの判決を出した際の、井上登裁判官の意見である。



以下、ぼくの意見。

物事を客観的に見ることの、なんと難しいことか。
それでも、世に意見を主張する際は、客観的視点が不可欠なのだ。
おいそれと自分の意見を公表することなど出来ない。

理系離れ、とよく言われるが、法律知識は、文系の学問ではないか。
文系離れのなんと甚だしいことか。
論理的思考も必要だが、論理的思考をしようという哲学は、もっと大事ではないか。

これらのことは、ぼくが余暇を使って、1週間で調べられる程度の知識でしかない。
このことが、一般的に教育されていないことに、腹立ちを覚える。
これらのことを、調べようとしない人々の姿勢に、腹立ちを覚える。


ここまで調べた結果として、ぼくの意見は述べねばなるまい。
『現行法の理念に従い、死刑は悪であるが、今の日本には必要な刑である。』



本日、勝木諒容疑者が、殺人容疑で再逮捕された。
Yahoo!のニュースで、本件に関するユーザーコメント上位5つがすぐに閲覧できる。
これをここに開示することで、本件、終了としたい。
賛成・反対コメント、お待ちしております。

身勝手な性犯罪者なだけじゃなく
殺した事実も当初認めようとはしなかった
明らかに罪を犯したという自覚があったから
多少知的障害があろうと善悪の区別がついていたのだから
どうか極刑に処してほしい

責任能力があるなら、死刑でお願いします
責任能力がないんなら、一生世間に出れないようにしてほしい
同じことがあってはならない
何の罪もない子供が殺められたことをしっかりと受け止めて欲しい

責任能力がないから罪に問えない、ってのは間違ってるよなあ。
いいかげん精神鑑定とかやめてやったことの罪は罪で裁いてほしい。
被害者や家族はたまったもんじゃない。

「帰れ」「帰りたくない」で口論になった?
「帰りたい」「帰さない」だろ。
死ね。

責任能力に問題があって、死刑にできないのでしたら、
ご自分のやられたことについても全く内省不能、また同じことが起こるということです
病院か施設か何処でもいいから、隔離してください
それが、彼のためでもあると思います

以上。
関連記事


テーマ : ひとりごと
ジャンル : 心と身体

コメントの投稿

非公開コメント

No title

こんばんは。
こういう話は、どのような環境で議論しても、絶対に結論の出ないテーマです。私は、ストラグラーさんの考えや、結論を導き出すに至るまでのプロセスを拝見し、何か感慨深いものを覚えます。
個人的な考えで、どこまでも利己的に語るとするなら、私は全ての罪は己の内にあるものだと思います。罪は、自らが罪だと感じられて初めて罪となります。罰がそのけん引役になることはあるかもしれません。でも、罰を他人から与えられても、自身によって気がつかなければ罪だと感じることはありません。精神が特殊な状態であって、罪を罪だと認識できないのであれば、その人間が罪を感じることはないはずです。
しかし、罰を与えるかどうかは、これは与える側の人間が考えることです。裁判、司法、これらの本来の役割は、罰を与えるかどうかを議論すべきところだと私は思います。社会的通念にできるだけ沿った形で、罰を与えるべきかどうかを判断するのが司法の役割のような気がします。
いずれ、どのような人間にも、罪を感じる瞬間が来ると信じたいです。でなければ、その人は未来永劫罰を受け続ける。それこそ、最も悲しい人なのかもしれないと、少し思います。
ただ私も、身内の不幸にここまで寛容に構えられる自身はありませんが。

Re: No title

abstraさん、コメントありがとうございます。
ぼくが伝えたかったことは、きちんと伝わったようで、とてもうれしいです。
どんな論議でもそうなのですが、共通の結論がきちんと出るとは限りません。その意味で、すべての意見は個人的意見に過ぎない。でも、その意見には、どれだけの裏付けがあるのか、どれだけ強固な論拠によって導き出されたものなのか、それを見極める必要はあるのでは、と考えます。
実は、これを調べている最中に、すごく、裁判員制度に期待する気持ちが大きくなっていきました。
こういう問題と正面から向き合わざるを得ない状況になるからです。逃げられないからです。
他の観点では、問題の多い制度であることは間違いないのですが、少なくともこの問題を考えなければならない機会が与えられる、という意味では、この制度にも意味がありそうです。
ランキング参加中
また、ランキングサイトに参戦することとなりました。
グリグリグリっとクリックお願いします。
にほんブログ村 ライフスタイルブログへ
プロフィール

ストラグラー

Author:ストラグラー
システムエンジニア11年戦士。
世の中の出来事や身のまわりのいろいろなことに、興味の向くままに、てれてれと書き綴ります。
闘って撃沈したり、折り合いをつけたり、妥協したり、たまにはガッツポーズしたり。
お気軽にお楽しみくださいませ。

リンクフリー。お気に召しましたら、ご自由にどうぞ。

カウンター
目次

全ての記事を表示する

カレンダー
07 | 2020/08 | 09
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
躁 (8)
本 (6)
月別アーカイブ
リンク
RSSリンクの表示
フリーエリア
edita.jp【エディタ】